昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2009,05,07の日記
クーの写真を載せています。
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夕方、骨付鳥 一鶴の丸亀中府店に行ってきました。
店内の様子です。以前、土器川のほとりにあるお店のほうに行ったことがあるのですが、そちらとは雰囲気が違っているように感じました。とはいっても、数年前のことなので、今は改装してイメージを変えてみたりしているかもしれません。
テーブルにあったメニューです。メインの「おやどり」と「ひなどり」は、ここには載っていませんね〜、先ほど気がつきました。
飲み物関係のメニューはこんな感じ。今回は「エビス黒生」の大ジョッキを。
「おやどり」です。980円でした。上のお皿は一緒に付いてくるキャベツです。
「おやどり」には切れ目が入っていますが、それでも歯で噛みちぎるのには苦労します(箸でひと口分を取り分けるのはほぼ不可能です)。お上品に食べるのであれば、柔らかい「ひなどり」をお勧めします。
「とり」を使ったおつまみメニューがもっとあってもいいかなァ、と思いました。特にアルコールが入る夜の部は・・・。
昨日(4日)の続きです。
別子銅山記念館に寄ったあと(休館日でしたが)、主要地方道47号線に。途中の"道の駅 マイントピア別子"も、東平(とうなる)地区への分岐点も車列が。早々に旧別子銅山に向かいました。
ちなみに別子銅山の開坑は1691年。閉山は1973年。283年ものあいだ、鉱山経営を住友が一貫して担ってきたわけで、そういうケースは世界的にも稀なことだそうです。
遊歩道入口に設置してある案内図です。当初はここに来る予定は無かったので下調べもしておらず、この地図だけが頼り。とはいえ、距離も所要時間も記載されていないので、最初の遺構に出会うまでは距離感というか全体の位置関係が把握できなくて不安でしたね〜。
この案内図だけでなく、距離ポストくらいは遊歩道の途中に設置してあってもいいのでは、と思いました。
閉山後は山に返すというのが別子銅山遺構の方針のようですので、家屋等は撤去され、石垣などだけが残されています。
小足谷近辺にはおおまかに3つの集落があったそうです。
この写真だと、右側方向に上前集落が続いていたのではないかと思います。
"小足谷接待館"、もしくは"別子接待館"と呼ばれていた施設の遺構です。
元々は一般人が経営していた"泉亭"という店を、1901年に別子銅山を訪れる賓客の宿泊用に改装したのだそうです。
レンガ塀にはなかなかオシャレな意匠がこらしてあります。
敷地内の様子。森に還りつつあります。
こうした石垣を、小学校の敷地だけではなく山中のいたるところに造りあげたわけですから、すごいものです。
振り返ってみたところです。左側の樹木が並んでいる場所に、かつては小学校の校舎が建っていました。
かつて、石段の上には山林課と土木課の事務所を兼ねた巨大な倉庫があったそうです。
1890年5月に別子銅山開山200年祭が行われた際、この倉庫が劇場として利用されたことがきっかけとなり、それ以降、毎年5月の山神祭では京都から歌舞伎役者を呼び寄せて芝居が披露されたそうです。
ここに巨大倉庫(劇場)が建っていたわけです。しばらくこの場所に立っていると、芝居を楽しむ当時の人達の姿やざわめきが甦ってくるような気がしてきました。
樹々ばかりですが、正面にはかつて高橋製錬所があり、洋式鉱炉や沈殿工場などの施設が並んでいたそうです。
別子銅山の遺構はここから先にもたくさんあるのですが、今回はここで引き返しました。駐車場からこの高橋製錬所までは、写真を撮ったりしながら40分くらいかかったように思います。
残念なことに別子銅山記念館は休館日でした。ゴールデンウィーク中だというのに(笑)。折角なので、外に展示してある、かつて鉱山で活躍した車両の写真を撮ってきました。
各車両の名前は説明書きに記載されていたものです。
1892年にクラウス製造所(ドイツ)より購入した機関車だそうです。
1950年の路線電化以降に廃車となり、その後は愛媛県立新居浜工業高等学校で保管。別子銅山記念館の建設にあたって、この地に移設されたとのこと。
第四通洞の専用車両で、鉱石や人員輸送のための車両の牽引をしていたようです。上部に集電のためのポールがあります。
鉱石や資材の運搬用車両で、昭和初期に導入されたそうです。
上の大型四角鉱車と同様に鉱石や資材の運搬用。1952年頃から投入されたようです。
「トロッコ」というと、こういう感じの車両がイメージされるのではないでしょうか。
「電車」となっていますが、見ての通りモーター等は付いていません。従業員達による愛称でしょう。
1938年から閉山の1973年まで使用されたそうです。新居浜市側の東平鉱口と別子山村側の日浦鉱口とを結ぶ坑内軌道(全長:約4km)で運行された人員輸送車両です。
1950年の電化後に日立製作所から部品を購入し、別子事業所で組み立てられた電気機関車です。