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2011/09/11

米子大瀑布へ 2

昨日(2011,09,10)の撮影です。

前回はこちら。→「米子大瀑布へ 1」

米子硫黄鉱山


権現滝から続く森の中の道を歩いていくと、突然、このような開けた場所に。映画『千と千尋の神隠し』のあの草原のシーンを思い出してしまいました。

右上の場所に、かつては事務所や索道施設、製錬所などといった鉱山の中心的な施設があったようです。

石段


記念館や社宅があった場所と分教場との境にあると思われる石段です。おそらく、当時のものではないかと思って撮ってみたのですが。

権現滝と不動滝

一般的な周遊コースの最上部にあたる場所からの権現滝(左)と不動滝です。

製錬所跡方面と滝

カメラを少し左に振るとこのような景色となります。左の平な場所が鉱山の中心部で、左の谷のほうに索道が伸びてその先に坑道があったようです。

今年の春に訪れた愛媛県別子銅山 東平地区のことを思い出しつつ、かつての鉱山の様子を想像していました。


このあとはジグザグの山道を降りて駐車場に向かいました。

2011/09/10

米子大瀑布へ 1

紅葉シーズンには混雑するとのことなので、9月の晴天を狙っていました。

午前8時過ぎに安曇野バイクで出発。豊科ICから長野自動車道に乗り、上信越自動車道の須坂長野東ICで降りました。あとは案内看板を頼りに目的地へ。

駐車場


ここに至るまでの道は舗装路ですが、駐車場は砂利でした。

日射しが強烈だったので、木陰にバイクを駐車。

トイレとベンチ、そして繁忙期には営業していると思われる店があります。

ここから先の道ですが、「遊歩道」と紹介されていることが多いようですが、どちらかというと登山道をイメージしたほうが正しいような道です。もちろん、危険な場所には手すりや階段が設置されていますけれども。

滝山不動寺 奥の院


建物に向かって右に進むと不動滝の直下にまで行けるということなので、そちらに。

不動滝

落差85mともいわれる不動滝です。「米子大瀑布」のひとつの滝となります。

写真を撮った場所からさらに滝に近付いてみましたが、あっというまに全身ずぶ濡れ状態に。暑くて汗ビッショリだったために気持ちよかったですけれども。

それにしても、これだけの落差のある滝のそばに近づけるというのは、国内では珍しいのではないでしょうか。

権現滝


遊歩道の途中から見えた権現滝です。「米子大瀑布」のもう一つの代表的な滝です。落差はおよそ75mだそうです。

不動滝とは異なり、滝のそばに行くことはできないようです。


2011/05/13

別子銅山 東平地区 4

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

トンネル


「中マンプ」と呼ばれていたトンネルの喜三谷側の出入り口です。

こちらは旧採鉱本部・第三通洞側の出入り口です(通称「第三広場」にあります)。

第三社宅跡


東平の鉱山電車基地から第三通洞方面に歩いていく途中にある鉱山住宅跡です。「第三社宅」の「第三」というのは、造成・建設の順番ではなく「第三通洞」に由来しているそうです。


  • 1921,11,09 9戸の社宅
  • 1967年 18戸あった社宅を撤去

東平採鉱本部跡


左側に第三変電所跡が、右側の方に「中マンプ」と呼ばれた喜三谷から続くトンネルの出入り口や火薬庫跡があります。中央が第三通洞方面です。

沢(寛永谷・柳谷)を暗渠として平地(通称「第三広場」)を造成し、2階建ての採鉱本部の他に各種の施設(機械修理工場・木工場等)を建設したそうです。


  • 1916年 採鉱本部が東延からここに移される
  • 1928年 採鉱本部は東平中心部に移される
    • 採鉱本部の建物は東平倶楽部として利用されることに
  • 1930年 採鉱本部は山麓の端出場に移される

火薬庫跡


中には爆薬庫・普通火薬庫・火工品庫などがあり、ダイナマイト等が保管されていたそうです。

旧第二探坑坑道を利用した設備で、万が一爆発事故が発生しても爆風が直接外に出ないような構造となっています。

マムシに注意するようにという看板があったので、長居することなく退散しました。


  • 1912年 設置
  • 1968年 閉鎖

第三変電所跡


この「第三」も、(変電所の順番等ではなく)「第三通洞」に由来しているそうです。

三相交流用の碍子が並んでいます。

機械類は撤去されていますが、内部が当時のまま残されている建物は別子銅山関連施設ではここだけなのだそうです。

階段の向こう側は和室になっています。

1階右奥に進むと、かまどが。さらに進むと、風呂やトイレがありました。

2階の様子です。

入り口近くの窓と壁を撮ってみました。


  • 1904,09 建設
  • 1965年 閉鎖

第三通洞


第三通洞手前の橋梁部には、鉱山鉄道レールが残っていました。

標高は744mだそうです。

元々、第三通洞は「三角(みすま)」という鉱床の中の富鉱部を狙って掘られた多目的坑道なのだそうです。

内部は真っ暗でしたが、入り口の柵を利用してカメラを固定して撮ってみました。

このあとは往路を引き返しました。


  • 1894年 開削に着手
  • 1902年 完成
  • 1911年 日浦通洞完成
    • 東平~日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれる
  • 1973年 鉱山鉄道も廃止

2011/05/12

別子銅山 東平地区 3

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

鉱山車輌・運搬器展示場


このトンネルが「小マンプ」と呼ばれている場所なのかもしれません。とすると、上にはプールがあったハズですが・・・。


2t蓄電車


鉱車や人車の牽引役として使われていたそうです。「蓄電車」というよりは、「蓄電式(バッテリー式)機関車」といったほうがわかりやすいかも。

他に4t・6tの機関車もあったようです。

運転席です。進行方向に対して、どちらかというと横向きに座る感じで運転していたのでしょうか。

照明の関係で上の写真とは色が異なっていますが、同じ車輌です。

かご電車

「電車」となっていますが、動力を持たない客車です。鉱山関係者以外の人も無料で乗ることができたようです。

ベンチ状の椅子(2人掛け?)が中央出入り口の左右に2つずつあります。


  • 1938年~1973年
  • 東平坑口~日浦坑口
    • 約4,000m

坑木運搬台車


坑内で使用される材木をはじめとして、いろいろなものが運搬されたようです。運搬資材に合わせて製造・改造されたいくつかのバージョンが存在していたとか。

三角鉱車


鉱石運搬用としては古いタイプの鉱車なのだそうです。

前後のロックを外すことで、手動でバケットを左右に傾けることが可能です。

600Bローダー


鉱石をすくって鉱車に積み込みをするための作業車輌です。自走は出来ないので、後ろに機関車が連結されたのでしょう。

バケット部を動かす動力としては、圧縮空気が用いられたそうです。各種の作業用に圧縮空気用の管が坑道内に張り巡られていたのかもしれません。

車輌後部です。バケット部を上下させるためのチェーンが見えています。

充電車

「蓄電車」(バッテリー式機関車)の充電用に用意された車輌のようです。

キブル


立坑で使われた運搬器で、ズリ(破砕された岩石)を運び出すためのもののようです。

立坑の大きさに合わせて、0.7立方メートルのものと1.4立方メートルの容量のものが使い分けられていたそうです。

索道バケット


東平~端出場に設けられた索道で使われた運搬器で、鉱石の他に生活物資などの運搬にも使われたそうです。


2011/05/11

別子銅山 東平地区 2

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

東平娯楽場跡


貯鉱庫跡の下部まで降りたあとは、再びインクライン跡の階段を使って駐車場に戻る人が多いのですが、林の中に道が続いていたので、そちらに進んでみました。

最初にあったのがこの娯楽場跡で、この橋の先に相当に大きな建物が建っていたそうです。


  • 1912年 建設
  • 1933年 2階建てから3階建てに改築
  • 1968年 閉館
  • 収容人数:約2,000名

保育園跡


長円形の構造物はミニプールか池の跡なのでしょう。その左側に出入り口の門柱が見えています。


  • 1950年 開設
  • 1968年 閉園
  • 東平地区全域の児童(3歳~小学校入学前)が通園

東平生協跡


左側に柵の一部が残っています。


  • 1906年 配給所として開設
  • 1958,06,01 配給所から生協に
  • 1968年 閉店
  • 物資は山麓の端出場から索道東平索道基地に届けられ、インクライン経由で店先へ

住友別子病院東平分院跡


山中の、しかも危険を伴う仕事場に設けられた病院ということで、充実した設備を備えていたようです。


  • 1905,11,01 東平出張所として開設
  • 1909,06 新築され竣工
    • 診療科:内科・外科
    • 本館・病室敷地面積:267.8坪(建物面積:167.32坪)
    • 避病舎敷地面積:97.9坪(建物面積:53.42坪)
    • 普通病室数:12床
    • 隔離病室数:2床
    • 避病舎:9床
    • 医師・職員:内科1名・外科1名・看護士1名・調剤士1名・事務1名
  • 1968,03,31 閉鎖

プラットホーム跡


東平地区見物のメインとなる駐車場は、かつて鉱山鉄道の基地だったところです。写真左側の歩道と花壇のような場所にホームがあり、ここで列車に乗り降りしていたようです。

ここから第三通洞を経て日浦へと電車が通じていたんですね~。所要時間は30分ほどだったようです。

写真の右端に乗ってきたバイクが写っています。


  • 1938年 作業員用の「人車」の後ろに「かご電車」が連結されるようになる
  • 1968年 東平坑の閉坑に伴い、1日2便に
  • 1973年 廃止
  • 朝・昼・夕方の1日3便
  • 特別電車(「特電」)の運行有り
  • 東平プラットホーム~小マンプ(プール下のトンネル)~中マンプ(喜三谷のトンネル)~第三通洞~日浦

2011/05/10

別子銅山 東平地区 1

昨年訪れた旧別子銅山に続いて、今年は「東洋のマチュピチュ」とも評される別子銅山の東平(とうなる)地区にバイクで行ってきました。

撮影は、全て5月9日(月)です。

貯鉱庫跡


東平地区の駐車場(かつての鉱山鉄道の基地)から見下ろした景色です。すぐ下が貯鉱庫の跡で、その下には索道基地のレンガ製の支柱が見えています。

索道は写真左側の谷へと延びて、麓にある現在の"道の駅 マイントピア別子"あたりにあった端出場と呼ばれる施設とを結んでいたようです。

鉱山鉄道で運ばれてきた鉱石は、この穴から下の貯鉱庫内に落とされたのでしょう。

貯鉱庫の下部から上部の駐車場方向を見上げた写真です。「東洋のマチュピチュ」と言われるのもわかるような堂々とした遺構です。

中段に、索道基地跡のレンガの支柱が見えています。

しっかりとした石造り。

右上に索道基地の一部が見えています。

最下部にあるこの不思議なカタチをしたこの施設が、どういう役割を担っていたのかがわかりませんでした。説明書きを見落としてしまっただけかもしれませんが・・・。索道やインクラインなどの運搬施設と関係があるような気もしますが、何でしょうか。

インクライン跡


かつてはここにインクラインと呼ばれるケーブルカーのような施設があったそうです。現在の駐車場は、かつては鉱山鉄道の基地だったわけで、下部にある索道基地とをこのインクラインで結んで様々な物資を運んでいたわけです。

現在は220段の階段となっています。貯鉱庫下部へと向かうメインルートです。


  • 1916年 竣工
  • 斜長:95m
  • 仰角:21度
  • 電気巻き上げ式
  • 1994年 220段の階段が整備される

索道基地跡


一旦、貯鉱庫に入れられていた鉱石が、ここから山麓の端出場に索道で搬出されていたわけです。

奥の谷の方向に索道が延びていたことになります。

レンガの支柱は所々崩れて植物が。自然に還りつつあるようで、良い雰囲気が感じられます。


  • 1905年 東平~黒石駅に索道設置
    • ブライヘルト(ドイツ人の索道技師)
    • 自動複式索道
    • 3,575m
    • 2ヶ所(新道・六号)の中継施設
  • 1935年 東平~端出場に距離を短縮
    • 2,717m
    • 支柱:26基
    • 搬器:約80台
    • 速度:150m/分
    • 同年、東平~太平坑の索道も完成
      • 1,312m

鉱山住宅跡


貯鉱庫のさらに下段には、鉱山住宅の一部が保存・復元されています。

長屋形式で、この写真に写っているものだと3世帯分。ひとつひとつにかまどがあるのがわかります。かまどの隣が台状になっていますが、そこに炊事用のシンクが置かれていたのかもしれません。

一世帯分のスペースです。手前から、台所兼土間、居間、そして寝室というように2Kくらいの間取りだったようです。居間と寝室は、それぞれ4畳半くらいの広さのように見えましたが、どうでしょう。

共同炊事場の跡でしょうか。