Twitter:raven_xx

2011/05/12

別子銅山 東平地区 3

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

鉱山車輌・運搬器展示場


このトンネルが「小マンプ」と呼ばれている場所なのかもしれません。とすると、上にはプールがあったハズですが・・・。


2t蓄電車


鉱車や人車の牽引役として使われていたそうです。「蓄電車」というよりは、「蓄電式(バッテリー式)機関車」といったほうがわかりやすいかも。

他に4t・6tの機関車もあったようです。

運転席です。進行方向に対して、どちらかというと横向きに座る感じで運転していたのでしょうか。

照明の関係で上の写真とは色が異なっていますが、同じ車輌です。

かご電車

「電車」となっていますが、動力を持たない客車です。鉱山関係者以外の人も無料で乗ることができたようです。

ベンチ状の椅子(2人掛け?)が中央出入り口の左右に2つずつあります。


  • 1938年~1973年
  • 東平坑口~日浦坑口
    • 約4,000m

坑木運搬台車


坑内で使用される材木をはじめとして、いろいろなものが運搬されたようです。運搬資材に合わせて製造・改造されたいくつかのバージョンが存在していたとか。

三角鉱車


鉱石運搬用としては古いタイプの鉱車なのだそうです。

前後のロックを外すことで、手動でバケットを左右に傾けることが可能です。

600Bローダー


鉱石をすくって鉱車に積み込みをするための作業車輌です。自走は出来ないので、後ろに機関車が連結されたのでしょう。

バケット部を動かす動力としては、圧縮空気が用いられたそうです。各種の作業用に圧縮空気用の管が坑道内に張り巡られていたのかもしれません。

車輌後部です。バケット部を上下させるためのチェーンが見えています。

充電車

「蓄電車」(バッテリー式機関車)の充電用に用意された車輌のようです。

キブル


立坑で使われた運搬器で、ズリ(破砕された岩石)を運び出すためのもののようです。

立坑の大きさに合わせて、0.7立方メートルのものと1.4立方メートルの容量のものが使い分けられていたそうです。

索道バケット


東平~端出場に設けられた索道で使われた運搬器で、鉱石の他に生活物資などの運搬にも使われたそうです。


一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,12の日記

ラーメン屋 きまぐれ八兵衛で食べた「つけ麺」の写真を載せています。


2011/05/11

別子銅山 東平地区 2

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

東平娯楽場跡


貯鉱庫跡の下部まで降りたあとは、再びインクライン跡の階段を使って駐車場に戻る人が多いのですが、林の中に道が続いていたので、そちらに進んでみました。

最初にあったのがこの娯楽場跡で、この橋の先に相当に大きな建物が建っていたそうです。


  • 1912年 建設
  • 1933年 2階建てから3階建てに改築
  • 1968年 閉館
  • 収容人数:約2,000名

保育園跡


長円形の構造物はミニプールか池の跡なのでしょう。その左側に出入り口の門柱が見えています。


  • 1950年 開設
  • 1968年 閉園
  • 東平地区全域の児童(3歳~小学校入学前)が通園

東平生協跡


左側に柵の一部が残っています。


  • 1906年 配給所として開設
  • 1958,06,01 配給所から生協に
  • 1968年 閉店
  • 物資は山麓の端出場から索道東平索道基地に届けられ、インクライン経由で店先へ

住友別子病院東平分院跡


山中の、しかも危険を伴う仕事場に設けられた病院ということで、充実した設備を備えていたようです。


  • 1905,11,01 東平出張所として開設
  • 1909,06 新築され竣工
    • 診療科:内科・外科
    • 本館・病室敷地面積:267.8坪(建物面積:167.32坪)
    • 避病舎敷地面積:97.9坪(建物面積:53.42坪)
    • 普通病室数:12床
    • 隔離病室数:2床
    • 避病舎:9床
    • 医師・職員:内科1名・外科1名・看護士1名・調剤士1名・事務1名
  • 1968,03,31 閉鎖

プラットホーム跡


東平地区見物のメインとなる駐車場は、かつて鉱山鉄道の基地だったところです。写真左側の歩道と花壇のような場所にホームがあり、ここで列車に乗り降りしていたようです。

ここから第三通洞を経て日浦へと電車が通じていたんですね~。所要時間は30分ほどだったようです。

写真の右端に乗ってきたバイクが写っています。


  • 1938年 作業員用の「人車」の後ろに「かご電車」が連結されるようになる
  • 1968年 東平坑の閉坑に伴い、1日2便に
  • 1973年 廃止
  • 朝・昼・夕方の1日3便
  • 特別電車(「特電」)の運行有り
  • 東平プラットホーム~小マンプ(プール下のトンネル)~中マンプ(喜三谷のトンネル)~第三通洞~日浦

一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,11の日記

らーめん まるや松本市和田)で「とんこつチャーシュー」を食べて、その写真を載せています。

2011/05/10

別子銅山 東平地区 1

昨年訪れた旧別子銅山に続いて、今年は「東洋のマチュピチュ」とも評される別子銅山の東平(とうなる)地区にバイクで行ってきました。

撮影は、全て5月9日(月)です。

貯鉱庫跡


東平地区の駐車場(かつての鉱山鉄道の基地)から見下ろした景色です。すぐ下が貯鉱庫の跡で、その下には索道基地のレンガ製の支柱が見えています。

索道は写真左側の谷へと延びて、麓にある現在の"道の駅 マイントピア別子"あたりにあった端出場と呼ばれる施設とを結んでいたようです。

鉱山鉄道で運ばれてきた鉱石は、この穴から下の貯鉱庫内に落とされたのでしょう。

貯鉱庫の下部から上部の駐車場方向を見上げた写真です。「東洋のマチュピチュ」と言われるのもわかるような堂々とした遺構です。

中段に、索道基地跡のレンガの支柱が見えています。

しっかりとした石造り。

右上に索道基地の一部が見えています。

最下部にあるこの不思議なカタチをしたこの施設が、どういう役割を担っていたのかがわかりませんでした。説明書きを見落としてしまっただけかもしれませんが・・・。索道やインクラインなどの運搬施設と関係があるような気もしますが、何でしょうか。

インクライン跡


かつてはここにインクラインと呼ばれるケーブルカーのような施設があったそうです。現在の駐車場は、かつては鉱山鉄道の基地だったわけで、下部にある索道基地とをこのインクラインで結んで様々な物資を運んでいたわけです。

現在は220段の階段となっています。貯鉱庫下部へと向かうメインルートです。


  • 1916年 竣工
  • 斜長:95m
  • 仰角:21度
  • 電気巻き上げ式
  • 1994年 220段の階段が整備される

索道基地跡


一旦、貯鉱庫に入れられていた鉱石が、ここから山麓の端出場に索道で搬出されていたわけです。

奥の谷の方向に索道が延びていたことになります。

レンガの支柱は所々崩れて植物が。自然に還りつつあるようで、良い雰囲気が感じられます。


  • 1905年 東平~黒石駅に索道設置
    • ブライヘルト(ドイツ人の索道技師)
    • 自動複式索道
    • 3,575m
    • 2ヶ所(新道・六号)の中継施設
  • 1935年 東平~端出場に距離を短縮
    • 2,717m
    • 支柱:26基
    • 搬器:約80台
    • 速度:150m/分
    • 同年、東平~太平坑の索道も完成
      • 1,312m

鉱山住宅跡


貯鉱庫のさらに下段には、鉱山住宅の一部が保存・復元されています。

長屋形式で、この写真に写っているものだと3世帯分。ひとつひとつにかまどがあるのがわかります。かまどの隣が台状になっていますが、そこに炊事用のシンクが置かれていたのかもしれません。

一世帯分のスペースです。手前から、台所兼土間、居間、そして寝室というように2Kくらいの間取りだったようです。居間と寝室は、それぞれ4畳半くらいの広さのように見えましたが、どうでしょう。

共同炊事場の跡でしょうか。


一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,10の日記

頂いた山菜の写真を載せています。

2011/05/09

濃厚魚介醤油そば

讃岐ラーメン はまんどに再び行ってきました。

注文したのは、前回と同じく「おまかせ(シークレット)」メニューとして出されている「濃厚魚介醤油そば」(700円)の「麺増し大盛り」ver.(880円)。

魚醤好きなので w こうしたラーメンは大好きです。四国にいるあいだにもう一度くらい食べたいほど。

同じものではなくてもいいので、いかなご醤油の風味を最大限に活かしたラーメンをぜひレギュラーメニューに加えて欲しいところ。帰省して訪れた時に、昨年のようにメニュー落ちしているというのは残念過ぎるものがあります。