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2011/05/14

一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,14の日記

2011/05/13

別子銅山 東平地区 4

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

トンネル


「中マンプ」と呼ばれていたトンネルの喜三谷側の出入り口です。

こちらは旧採鉱本部・第三通洞側の出入り口です(通称「第三広場」にあります)。

第三社宅跡


東平の鉱山電車基地から第三通洞方面に歩いていく途中にある鉱山住宅跡です。「第三社宅」の「第三」というのは、造成・建設の順番ではなく「第三通洞」に由来しているそうです。


  • 1921,11,09 9戸の社宅
  • 1967年 18戸あった社宅を撤去

東平採鉱本部跡


左側に第三変電所跡が、右側の方に「中マンプ」と呼ばれた喜三谷から続くトンネルの出入り口や火薬庫跡があります。中央が第三通洞方面です。

沢(寛永谷・柳谷)を暗渠として平地(通称「第三広場」)を造成し、2階建ての採鉱本部の他に各種の施設(機械修理工場・木工場等)を建設したそうです。


  • 1916年 採鉱本部が東延からここに移される
  • 1928年 採鉱本部は東平中心部に移される
    • 採鉱本部の建物は東平倶楽部として利用されることに
  • 1930年 採鉱本部は山麓の端出場に移される

火薬庫跡


中には爆薬庫・普通火薬庫・火工品庫などがあり、ダイナマイト等が保管されていたそうです。

旧第二探坑坑道を利用した設備で、万が一爆発事故が発生しても爆風が直接外に出ないような構造となっています。

マムシに注意するようにという看板があったので、長居することなく退散しました。


  • 1912年 設置
  • 1968年 閉鎖

第三変電所跡


この「第三」も、(変電所の順番等ではなく)「第三通洞」に由来しているそうです。

三相交流用の碍子が並んでいます。

機械類は撤去されていますが、内部が当時のまま残されている建物は別子銅山関連施設ではここだけなのだそうです。

階段の向こう側は和室になっています。

1階右奥に進むと、かまどが。さらに進むと、風呂やトイレがありました。

2階の様子です。

入り口近くの窓と壁を撮ってみました。


  • 1904,09 建設
  • 1965年 閉鎖

第三通洞


第三通洞手前の橋梁部には、鉱山鉄道レールが残っていました。

標高は744mだそうです。

元々、第三通洞は「三角(みすま)」という鉱床の中の富鉱部を狙って掘られた多目的坑道なのだそうです。

内部は真っ暗でしたが、入り口の柵を利用してカメラを固定して撮ってみました。

このあとは往路を引き返しました。


  • 1894年 開削に着手
  • 1902年 完成
  • 1911年 日浦通洞完成
    • 東平~日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれる
  • 1973年 鉱山鉄道も廃止

一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章をUPしていました。→2010,05,13の日記

2011/05/12

別子銅山 東平地区 3

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

鉱山車輌・運搬器展示場


このトンネルが「小マンプ」と呼ばれている場所なのかもしれません。とすると、上にはプールがあったハズですが・・・。


2t蓄電車


鉱車や人車の牽引役として使われていたそうです。「蓄電車」というよりは、「蓄電式(バッテリー式)機関車」といったほうがわかりやすいかも。

他に4t・6tの機関車もあったようです。

運転席です。進行方向に対して、どちらかというと横向きに座る感じで運転していたのでしょうか。

照明の関係で上の写真とは色が異なっていますが、同じ車輌です。

かご電車

「電車」となっていますが、動力を持たない客車です。鉱山関係者以外の人も無料で乗ることができたようです。

ベンチ状の椅子(2人掛け?)が中央出入り口の左右に2つずつあります。


  • 1938年~1973年
  • 東平坑口~日浦坑口
    • 約4,000m

坑木運搬台車


坑内で使用される材木をはじめとして、いろいろなものが運搬されたようです。運搬資材に合わせて製造・改造されたいくつかのバージョンが存在していたとか。

三角鉱車


鉱石運搬用としては古いタイプの鉱車なのだそうです。

前後のロックを外すことで、手動でバケットを左右に傾けることが可能です。

600Bローダー


鉱石をすくって鉱車に積み込みをするための作業車輌です。自走は出来ないので、後ろに機関車が連結されたのでしょう。

バケット部を動かす動力としては、圧縮空気が用いられたそうです。各種の作業用に圧縮空気用の管が坑道内に張り巡られていたのかもしれません。

車輌後部です。バケット部を上下させるためのチェーンが見えています。

充電車

「蓄電車」(バッテリー式機関車)の充電用に用意された車輌のようです。

キブル


立坑で使われた運搬器で、ズリ(破砕された岩石)を運び出すためのもののようです。

立坑の大きさに合わせて、0.7立方メートルのものと1.4立方メートルの容量のものが使い分けられていたそうです。

索道バケット


東平~端出場に設けられた索道で使われた運搬器で、鉱石の他に生活物資などの運搬にも使われたそうです。


一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,12の日記

ラーメン屋 きまぐれ八兵衛で食べた「つけ麺」の写真を載せています。


2011/05/11

別子銅山 東平地区 2

5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

東平娯楽場跡


貯鉱庫跡の下部まで降りたあとは、再びインクライン跡の階段を使って駐車場に戻る人が多いのですが、林の中に道が続いていたので、そちらに進んでみました。

最初にあったのがこの娯楽場跡で、この橋の先に相当に大きな建物が建っていたそうです。


  • 1912年 建設
  • 1933年 2階建てから3階建てに改築
  • 1968年 閉館
  • 収容人数:約2,000名

保育園跡


長円形の構造物はミニプールか池の跡なのでしょう。その左側に出入り口の門柱が見えています。


  • 1950年 開設
  • 1968年 閉園
  • 東平地区全域の児童(3歳~小学校入学前)が通園

東平生協跡


左側に柵の一部が残っています。


  • 1906年 配給所として開設
  • 1958,06,01 配給所から生協に
  • 1968年 閉店
  • 物資は山麓の端出場から索道東平索道基地に届けられ、インクライン経由で店先へ

住友別子病院東平分院跡


山中の、しかも危険を伴う仕事場に設けられた病院ということで、充実した設備を備えていたようです。


  • 1905,11,01 東平出張所として開設
  • 1909,06 新築され竣工
    • 診療科:内科・外科
    • 本館・病室敷地面積:267.8坪(建物面積:167.32坪)
    • 避病舎敷地面積:97.9坪(建物面積:53.42坪)
    • 普通病室数:12床
    • 隔離病室数:2床
    • 避病舎:9床
    • 医師・職員:内科1名・外科1名・看護士1名・調剤士1名・事務1名
  • 1968,03,31 閉鎖

プラットホーム跡


東平地区見物のメインとなる駐車場は、かつて鉱山鉄道の基地だったところです。写真左側の歩道と花壇のような場所にホームがあり、ここで列車に乗り降りしていたようです。

ここから第三通洞を経て日浦へと電車が通じていたんですね~。所要時間は30分ほどだったようです。

写真の右端に乗ってきたバイクが写っています。


  • 1938年 作業員用の「人車」の後ろに「かご電車」が連結されるようになる
  • 1968年 東平坑の閉坑に伴い、1日2便に
  • 1973年 廃止
  • 朝・昼・夕方の1日3便
  • 特別電車(「特電」)の運行有り
  • 東平プラットホーム~小マンプ(プール下のトンネル)~中マンプ(喜三谷のトンネル)~第三通洞~日浦

一年前の日記

昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,11の日記

らーめん まるや松本市和田)で「とんこつチャーシュー」を食べて、その写真を載せています。