
夕方、久しぶりに常念岳が山頂部分を見せてくれていました。雪の量はかなり少なくなってしまったようです。
メインサイト「安曇野の風景と暮らし.XX」のブログ版。
昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→diary/2010-5-30の日記
ミョウガの苗って、この時期に買ったんですね~。無事に冬を越して、芽が伸びてきています。
ネットでは女神湖にも円筒分水があるという情報があるので、女神湖を一周して探してみたのですが見つけられませんでした。で、蓼科湖の円筒分水(茅野市)へ。ここも先に訪れた鷽ノ口円形分水とともにぜひ訪れてみたかった場所です。

蓼科湖の堰堤の下にあります(この写真は、堰堤の上から見下ろすカタチで撮ったものです)。場所はすぐにわかると思います。

説明書みたいなものがないので、この円筒分水についての詳細はサッパリわかりません。
右側の蓼科湖からの水を、手前右側と左奥二つの用水路に分水しているようです。なかなか近未来的な滑らかな造形をしている円筒分水です。
長野県内で訪れていない円筒分水は、(確実に存在しているとわかっているもので)あと1箇所となりました。
2011,05,25 撮影
鷽ノ口円形分水(佐久穂町)を堪能したあとは国道141号線に出て、北上。国道142号線を経て主要地方道40号線で南下。女神湖方面を目指しました。途中で、今回のツーリングの目的地のひとつである「鳴石」(立科町)に立ち寄りました。

ソフトクリームなどを販売している売店の駐車場から、北側に100mほど入った林の中にあります。「雨境峠祭祀遺跡群」のひとつで、ここで神の降臨を願ったりするなどの祭礼が行われたそうです。
周辺では勾玉が多く出土したことから、このあたりは「勾玉原」とも呼ばれるとか。けっこう標高の高い場所ですが、大昔から人々が活動していたんですね~。

案内板のある方からすると裏側ということになるのですが、こちらのほうが不思議感があるので、ひょっとするとこちらが表側(祭祀に際して、人々が集う側)だったのではないかとも思ったのですが、どうだったのでしょう。
2011,05,25 撮影

今回のツーリングの一番の目的が、この鷽ノ口(うそのくち)円形分水を訪ねることでした。鷽ノ口地区までは割とスムーズにたどり着いたものの、肝心の鷽ノ口円形分水の場所がわからず(道沿いに案内板等はありませんでした)、地区内を行ったり来たり。バイクで良かったです。
写真の左上が上流部で、石堂川の引き込んでいます。流れてくるゴミを除去するためのゴミ揚げ機が見えています。

側面の穴は全部で47個あり、上村用水に28個を、佐口用水として13個を、そして小山用水として6個を割り当ててあるそうです。
水量が豊富で、この時期を狙って行って正解でした。動画はこちら(YouTube版のほうが高画質です)。

鷽ノ口円形分水の上流側です。右側にゴミ揚げ機が写っています。
2011,05,25 撮影

国道299号線の麦草ヒュッテ入り口付近にあります。麦草ヒュッテとは道路を挟んで反対側です。
まだ雪が残っていたのか、先日降ったという雪のためなのか、このような景色に。久しぶりに雪の上を歩きました。
2011,05,25 撮影

「みしゃかいけ」と読むようです。
茅野市にある人工の池で、奥蓼科温泉郷に向かう県道191号線沿いにあります。東山魁夷の「緑響く」の風景モデルとなったとされる場所ということで、立ち寄ってみました。
写真の方向が絵と一致しているかどうかはわかりませんが、静かな水面に樹々の影が映っている様子は確かにきれいでしたね~。
2011,05,25 撮影
昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,26の日記
そういえば、禁煙を始めてから丸2年が経過しました。吸いたいという欲求にかられたことが一度も無いまま、今に至っています。
昨年のこの日は、このような文章と写真をUPしていました。→2010,05,19の日記
連続テレビ小説「おひさま」のロケが行われたことでも注目されている中山高原(大町市)の菜の花畑や「まぼろしの池」の写真を載せています。
5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

「中マンプ」と呼ばれていたトンネルの喜三谷側の出入り口です。

こちらは旧採鉱本部・第三通洞側の出入り口です(通称「第三広場」にあります)。

東平の鉱山電車基地から第三通洞方面に歩いていく途中にある鉱山住宅跡です。「第三社宅」の「第三」というのは、造成・建設の順番ではなく「第三通洞」に由来しているそうです。

左側に第三変電所跡が、右側の方に「中マンプ」と呼ばれた喜三谷から続くトンネルの出入り口や火薬庫跡があります。中央が第三通洞方面です。
沢(寛永谷・柳谷)を暗渠として平地(通称「第三広場」)を造成し、2階建ての採鉱本部の他に各種の施設(機械修理工場・木工場等)を建設したそうです。

中には爆薬庫・普通火薬庫・火工品庫などがあり、ダイナマイト等が保管されていたそうです。
旧第二探坑坑道を利用した設備で、万が一爆発事故が発生しても爆風が直接外に出ないような構造となっています。
マムシに注意するようにという看板があったので、長居することなく退散しました。

この「第三」も、(変電所の順番等ではなく)「第三通洞」に由来しているそうです。

三相交流用の碍子が並んでいます。

機械類は撤去されていますが、内部が当時のまま残されている建物は別子銅山関連施設ではここだけなのだそうです。
階段の向こう側は和室になっています。

1階右奥に進むと、かまどが。さらに進むと、風呂やトイレがありました。

2階の様子です。

入り口近くの窓と壁を撮ってみました。

第三通洞手前の橋梁部には、鉱山鉄道のレールが残っていました。

標高は744mだそうです。
元々、第三通洞は「三角(みすま)」という鉱床の中の富鉱部を狙って掘られた多目的坑道なのだそうです。

内部は真っ暗でしたが、入り口の柵を利用してカメラを固定して撮ってみました。
このあとは往路を引き返しました。
5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

このトンネルが「小マンプ」と呼ばれている場所なのかもしれません。とすると、上にはプールがあったハズですが・・・。

鉱車や人車の牽引役として使われていたそうです。「蓄電車」というよりは、「蓄電式(バッテリー式)機関車」といったほうがわかりやすいかも。
他に4t・6tの機関車もあったようです。

運転席です。進行方向に対して、どちらかというと横向きに座る感じで運転していたのでしょうか。
照明の関係で上の写真とは色が異なっていますが、同じ車輌です。

「電車」となっていますが、動力を持たない客車です。鉱山関係者以外の人も無料で乗ることができたようです。
ベンチ状の椅子(2人掛け?)が中央出入り口の左右に2つずつあります。

坑内で使用される材木をはじめとして、いろいろなものが運搬されたようです。運搬資材に合わせて製造・改造されたいくつかのバージョンが存在していたとか。

鉱石運搬用としては古いタイプの鉱車なのだそうです。
前後のロックを外すことで、手動でバケットを左右に傾けることが可能です。

鉱石をすくって鉱車に積み込みをするための作業車輌です。自走は出来ないので、後ろに機関車が連結されたのでしょう。
バケット部を動かす動力としては、圧縮空気が用いられたそうです。各種の作業用に圧縮空気用の管が坑道内に張り巡られていたのかもしれません。

車輌後部です。バケット部を上下させるためのチェーンが見えています。

「蓄電車」(バッテリー式機関車)の充電用に用意された車輌のようです。

立坑で使われた運搬器で、ズリ(破砕された岩石)を運び出すためのもののようです。
立坑の大きさに合わせて、0.7立方メートルのものと1.4立方メートルの容量のものが使い分けられていたそうです。

東平~端出場に設けられた索道で使われた運搬器で、鉱石の他に生活物資などの運搬にも使われたそうです。
5月9日(月)に訪れた別子銅山 東平(とうなる)地区の写真の続きです。

貯鉱庫跡の下部まで降りたあとは、再びインクライン跡の階段を使って駐車場に戻る人が多いのですが、林の中に道が続いていたので、そちらに進んでみました。
最初にあったのがこの娯楽場跡で、この橋の先に相当に大きな建物が建っていたそうです。

長円形の構造物はミニプールか池の跡なのでしょう。その左側に出入り口の門柱が見えています。

左側に柵の一部が残っています。

山中の、しかも危険を伴う仕事場に設けられた病院ということで、充実した設備を備えていたようです。

東平地区見物のメインとなる駐車場は、かつて鉱山鉄道の基地だったところです。写真左側の歩道と花壇のような場所にホームがあり、ここで列車に乗り降りしていたようです。
ここから第三通洞を経て日浦へと電車が通じていたんですね~。所要時間は30分ほどだったようです。
写真の右端に乗ってきたバイクが写っています。
昨年訪れた旧別子銅山に続いて、今年は「東洋のマチュピチュ」とも評される別子銅山の東平(とうなる)地区にバイクで行ってきました。
撮影は、全て5月9日(月)です。

東平地区の駐車場(かつての鉱山鉄道の基地)から見下ろした景色です。すぐ下が貯鉱庫の跡で、その下には索道基地のレンガ製の支柱が見えています。
索道は写真左側の谷へと延びて、麓にある現在の"道の駅 マイントピア別子"あたりにあった端出場と呼ばれる施設とを結んでいたようです。

鉱山鉄道で運ばれてきた鉱石は、この穴から下の貯鉱庫内に落とされたのでしょう。

貯鉱庫の下部から上部の駐車場方向を見上げた写真です。「東洋のマチュピチュ」と言われるのもわかるような堂々とした遺構です。
中段に、索道基地跡のレンガの支柱が見えています。

しっかりとした石造り。

右上に索道基地の一部が見えています。

最下部にあるこの不思議なカタチをしたこの施設が、どういう役割を担っていたのかがわかりませんでした。説明書きを見落としてしまっただけかもしれませんが・・・。索道やインクラインなどの運搬施設と関係があるような気もしますが、何でしょうか。

かつてはここにインクラインと呼ばれるケーブルカーのような施設があったそうです。現在の駐車場は、かつては鉱山鉄道の基地だったわけで、下部にある索道基地とをこのインクラインで結んで様々な物資を運んでいたわけです。
現在は220段の階段となっています。貯鉱庫下部へと向かうメインルートです。

一旦、貯鉱庫に入れられていた鉱石が、ここから山麓の端出場に索道で搬出されていたわけです。
奥の谷の方向に索道が延びていたことになります。

レンガの支柱は所々崩れて植物が。自然に還りつつあるようで、良い雰囲気が感じられます。

貯鉱庫のさらに下段には、鉱山住宅の一部が保存・復元されています。
長屋形式で、この写真に写っているものだと3世帯分。ひとつひとつにかまどがあるのがわかります。かまどの隣が台状になっていますが、そこに炊事用のシンクが置かれていたのかもしれません。

一世帯分のスペースです。手前から、台所兼土間、居間、そして寝室というように2Kくらいの間取りだったようです。居間と寝室は、それぞれ4畳半くらいの広さのように見えましたが、どうでしょう。

共同炊事場の跡でしょうか。